電話でもメールでも私がたった一言“会いたい”と素直に告げれば、彼が飛んでくることはわかっていた。 きっと彼は嫌な顔ひとつせず、むしろ喜んで私を優しく抱きしめてくれるだろう。 だって彼は基本的に私に甘いし、私がここまで彼に恋焦がれているのだから、 彼もまた同じ感情を持て余しているのは明白だ。それは自惚れなんかじゃない。 私が呼べば、きっと彼は今すぐにでも会いに来てくれる。 精神安定剤 受験生の冬休みはまさに地獄だ。 毎日毎日勉強に終われ、塾と家の往復だけで1日が終わると言っても過言ではない。 少しテレビを見ているだけでも、親には「遊んでばっかりで」って怒られるし、時間が過ぎるごとに胸が圧迫されるような ストレスを感じる。 いつもなら気にも止めないような些細なことに凄く苛々する。 正体不明の不安に襲われて夜通し泣いたことも多々ある。 別に悲しいわけでもないのに、涙が零れるのは何故なんだろう。 早く時が過ぎてくれれば良いと思う反面、 明日なんて永遠に来なければ良いのにと願う私がいる。 不安定であやふやで壊れやすい、爆弾を抱えているような気分だった。 (…………くっそー会いたいなぁ) 苛々の原因はわかっていた。 勿論、将来の不安や“受験”という名の重い鉛が私に圧し掛かっているのは事実だけど、 それとはまた別に“何か”が不足しているのは明らかだった。分からないわけがない。 (律儀に約束なんか守んなよぅ) 鳴らない携帯を握り締めるのも、もう飽きてしまった。 彼からの連絡がないのなら、あんなもの意味がない。 いっそのこと捨ててしまおうかと本気で考えた。 ―――だけど、もしかしたら電話なりメールなりかかってくるかもしれない。 そう思うと、結局私は今日も携帯を手放せないのだ。なんとも情けない話である。 私を抱きしめてくれる唯一の存在である彼の名は、佐伯虎次郎という。 いつも余裕ぶっていてなんとも癪に障る男だし、 ちょっとやり過ぎな程優しかったり甘い言葉を吐いたりするなど、私とは基本的に考え方が違うため、むかつきもするし喧嘩だってしょっちゅうする。 けれど、どういう訳か私は彼といるときが一番自然な自分になれるのだ。一番居心地がよくて、一番安心するんだ。 (メールの1通くらいいれてよ) (ほんと何でそんな律儀なんだよ) (………………) (………早く高校受かりたいなぁ)(くそう) シャーペンをくるくると回しながら、私は重いため息をつく。 大体受かるのか。 確かにこの冬休みは今までにないくらい集中して勉強してるけど、 あの学校はどう考えても私にはハードルが高い気がする。 ダメそうな気がする。 ………いや、そんな戦う前に負けてどうすんだ、私。絶対受かる!って決めたじゃん。頑張れよ。頑張ろうよ。 (……………) だけど、どうしようもない不安に、私はやはりもう一度ため息をついてしまう。 (……何であいつあんなに頭良いの……) 私は来月、彼と同じ高校を受ける。 それは、去年の卒業式からの約束だった。 私は恋愛に関してはことごとく消極的で、最後の日だというのに、 あの日も校庭の隅っこでただ大人しくしているしかなかった。 校内で一番古い桜の木の下に彼はいて、 女子数人に取り囲まれている。 しかも、その女の子達以外にもちらちらと彼の方を見ている子も何人かいて、 私はただ複雑な気持ちで彼の姿を眺めていた。 遠かった。すごく、遠い人だと思っていた。 だって例え部活が同じで、毎日のように顔を合わせていたとしても、くだらない冗談で笑い合えていたとしても、 でもそれでも一つの年の差は大きかった。いつでも壁があった。あの頃の私にとって、彼はまるで雲のような存在だったのだ。 ……今になって、よくもまぁ、あそこまで夢を見れたなぁと我ながら呆れてしまうのだけど、でも片思いってそういうものだ。 それに、それが楽しかったのも事実だしね。 ……とにかく、だから、あの時彼が戸惑いがちに私の名前を呼んだときは、 心臓が止まるほどびっくりしたんだ。本当に、本当に驚いたんだよ。 「ちゃん」 彼は女の子達に貰った花束を片手に、ふわりと笑った。 男の子に、こんなに花が似合うのはずるいと思った。 でも、風になびく髪と舞い落ちる桜の花と。鮮やかなガーベラの組み合わせに。 私は、思わず見惚れてしまったのだ。 「一人でぼーっとしてんのが見えたからさ、話し掛けに来た」 「……それはどうも。卒業おめでとうございます」 「うん。ありがとう。本当におめでたいんだか、わかんないけどね」 (なんか、今思うとあいつって本当……) 「……っていうか」 「うん?」 「……いいんですか。女の子達。あんなに囲まれてたのに」 「……やっぱ見てたんだ?」 「ち、ちがっ! 見てたんじゃなくて、たまたま見えたんです!」 (私の気持ちなんて、すっごいバレバレで) 「そ? …でも別にいいんだよ。俺には第2ボタンをあげたい子がいるしね」 (私は、全然彼の気持ちには気づかなかったんだ) 「………は?」 「そーゆーわけで、あげる」 「……………」 「さすがに気づいたろ?」 そう言って、彼はひどく楽しそうに、そして少しだけ照れくさそうに、ふわりと笑った。 あの時は混乱してそれどころじゃなかったけど、あれは絶対計算づくしだ。 本当に腹ただしい。 それまで告げるチャンスなんて山ほどあったにも関わらず、彼はあの日を選んだんだ。 私の気持ちだって大昔に知ってたくせに! (そう文句を言ったら、いいじゃん、雰囲気あってさ、…だって) (私は前日も式の最中も、もう彼に会えないことが寂しくて泣きじゃくったというのに!) (でもそれは絶対言わない)(言っても、「へぇ…可愛いトコあるじゃん」って喜ばれるだけだ) (……どうせ知られてると思うけどね!)(ヤケ) そして、まあ、あの頃の私は大層純粋で。 好きなんてセリフ恥かしくて言えないから、私なりの、精一杯の告白をしたんだ。 「………サエさん」 「ん?」 「……私、絶対来年サエさんと同じ高校行きます」 と、このように私はあの時、彼と約束したのだ。 私の言葉を聞いてから、彼は「待ってる」ととても嬉しそうに笑って。 その笑顔が嬉しくて。その言葉が嬉しくて。私は、どんなことだって頑張れる気がしたんだ。 彼がいてくれれば、私は何でも出来る気がしたんだ。 今でも、その気持ちは変わらない。変わらないけど。 でも、私は気づいてしまったのだ。 一番勉強の妨げになるのは、テレビでもゲームでも漫画でもなくて、 ―――恋愛だという事実に。 「……うーん、このままじゃちょぉっと、いやかなり、危ないなぁ」 「少しレベルを下げたらどうだ?」 「とにかく、冬休みは人よりも頑張りなさい」 元来、私は勉強が得意ではなかった。 別に補習や赤点の常連ではなかったが、私の成績はよくも悪くも普通。 常に平均点。たまにちょっと上。それぐらいの成績だ。 だけど、彼はもう中々頭がよろしくて、しかも要領まで良いものだから部活や皆と遊んでいても常に学年30位には入っていて。 それでまぁそこで満足してくれれば助かるのに、部活引退してから真面目に受験勉強をしたらしく、東京の賢い公立の学校に入学してしまったのだ。 もう本当有り得ない。 でも、やっぱり学校に行っても彼に会えないのは寂しすぎるから(それはもうこの一年で嫌というほど経験してきた)、 絶対同じ学校に入ってやる!って頑張って勉強してきた。してた。したつもりだった。 だけど、よくよく考えれば、部活がない休日はデートのためにあるものだと信じていたし、 私が部活を引退してからは、彼の都合に合わせて2人の時間を作ってきた。 彼は受験生の私を心配して「大丈夫なの?」と気を使ってくれていたけど、 私は「大丈夫!」と自信を持って頷き、帰ってから勉強してるから!と答えた。 それは嘘じゃない。本当にしてた。少なくとも机の上には向っていたんだ。 ただ、問題は。 ついつい彼のことを考えてしまい、全く集中できていなかったこと。(自業自得だ) …だから、テストの結果が悪くて焦った私は勉強ができない原因を断ち切ろうとして、 「私、サエとは受験終わるまで会わないことにする」 「電話もメールもしない!」 「だから、サエもそのつもりでお願いね!」 と、できもしないことを宣言してしまったのである。 そして、なんだかんだで私思いの彼は文句を言うこともなく、 いつものように笑顔で「わかった。頑張れよ」と紡ぐだけだったのだ。 (そして本当にメールも電話もしなくなったよあの人)(律儀すぎるよね…!)(いや、そうしてって言ったのは私だけどさ…) 「……つかれたなぁ…」 思わず低く呟く。意識してないのに(だからか?)、ため息まで一緒に出た。 (あーもう) 最初の1周間は余裕だった。勉強もめちゃくちゃはかどったし、物凄く順調だった。 私だってやれば出来るじゃんってちょっと自分を褒めたくなった。 だけど。8日目、9日目、10日目と日がたつにつれてどんどんどんどん苦しくなった。 会いたくなった。恋しくなった。彼のことを思う時間が長くなった。 これじゃあ、意味がない。 どうせ集中力が途切れるなら、彼に会ってエネルギーを補給した方がずっといい。 (―――でも、) (そんな勝手なこと、出来るわけない) だって、言い出したのは私だ。 私の都合で、会わないと決めたのに、じゃあ次は寂しくなったから会おうなんて、言えない。言いたくない。例え彼が喜んでくれたとしても。そんなのは絶対嫌だ。 (……くっそー好きなんだよー) (電話くらいしやがれ) (メールでもいいから) (一言でいいから) 私は、彼といることがとても好きなんだと思う。 彼の隣にいるときが、一番幸せを感じる。胸の奥がぽかぽかと暖かくなるのを感じる。 他愛ない話題で盛りあがったり、くだらないことで喧嘩したり。 そんな時間が本当に好きだ。私の意識は、全て彼の方に向いている。それがダメだから、 距離を置くことを決めたんだ。彼と一緒にいると楽しすぎて、他のことが全て味気なく思えちゃうから。 やらなくちゃいけないことを全て面倒くさいと感じてしまうから。 ―――全て捨てて彼に没頭したくなってしまうのだ。 (……こんなんで大丈夫なのかな、私) 自分は淡白だから、執着なんてしないと思っていた。 こんなに誰かを好きになるなんて思わなかった。 (……やっぱ、一緒にいたいよなぁ) (もーほんとやー) 声が聞きたい。顔が見たい。話したい。触れたい。 いつものように、頭を撫でてもらいたい。 満たされない欲求は、次第にストレスに変わる。 (…………………) (…………………) (…………………) (……気分転換に散歩でもするか) どうせこのままじゃ、勉強なんてはかどらないんだから。 頭を、一度冷やした方がいい。 私は部屋の全身鏡の前で服装をチェックした。 デニムパンツに白いセーター。このまま外へ出ても大丈夫そう。 一応髪をブラシで梳かしてから、階段を降りる。 コンビニに行くといえば、母親に「牛乳かってきて」と頼まれた。 牛乳。なんか、所帯くさくて嫌だなと思いながら、外へ出る。 するとすぐに、冷たい風がびゅうっと頬を吹きぬけたことを感じる。 エアコンが効いていた部屋にいた私にその空気は心地よくて、思わず伸びをしたら、 ――――有り得ない、ここにいるはずがない人物と目が合ってしまった。 「………うそぉ」 そこには、ダッフルコートに身を包む、佐伯虎次郎の姿があったのだ。 「な、なにしてんの?」 「え、あー…」 煮え切らない彼の返事に何故だかこちらまで戸惑ってしまう。 自分が悪いことをしたような気さえした。 だって有り得ない。どうして彼がここにいるの。 もしかして、無意識のうちに彼にメールでもしてしまったのだろうか。 いや、そんなことない。そんなはずない。 ……じゃあ、どうして? そんな視線を投げかけてみても、彼は何も言わずにただ押し黙るだけだ。 しょうがないので、私も見つめ返してみると、彼の鼻が真っ赤なことに気がついた。 頬も赤い。っていうか、全体的に赤い。 「……サエ、いつからいたの?」 もしかしなくても、随分と長い間待っていてくれたことは明白だ。 なんなのよ、いるならいるって言えばいいじゃない。 こんな寒いトコにずっといたら風邪ひくじゃん。 そう思って、とりあえず上がる?と聞けば、いやすぐ帰るから、と彼は答えた。 「や、でも絶対風邪ひくよ。お茶でも飲んでったら?」 「……いや、一応約束だし?」 「……………(そうですが)(でも会いたかったんだい!)」 じゃあ、本当に何しに来たんだ。 そんなさ、白い息吐きながら待ってたなんて、さ。 ―――私に会いたかったからに決まってるじゃない。それしかないでしょ。 「……………」 「……………」 何日振りなんだろう。最後に会ったのっていつだったんだろう。 なんか、どうしよう。ちょっと夢みたいだ。 大げさだと笑われてしまうかもしれないけど、今、目の前に彼がいる。 そんな当たり前だったことがすごく嬉しいだなんて。―――本当、参る。 「………どうしたの?」 素直に、会えて嬉しい、と言えない私は本当に可愛くない。 わかってるけど、でもやっぱりそんなこと言えなかった。 「…………や、あのさ」 彼はじっと私を見つめているかと思うと、すぐに表情をくずして。 こまったように。てれくさそうに。ポケットに手を入れたまま、少し小さい声で呟いた。 「―――上手い口実が見つからなかったんだよ」 それで、家に来たはいいけど、私に会いに来る理由が思い浮かばなくてここでずっと考えてたの? どうしたのよそれ。全然あんたらしくないじゃない。もっといつも器用にこなしてたじゃない。 …………だけど、今、目の前にいるこの人が愛しくて愛しくて仕方ない私はおかしいんだろうか。 ヤバイ。泣きそう。どうしよう涙腺弱いんだよいま。 「…………サエって時々凄いバカだよね」 もう我慢できなかった。 だって本当はずっと会いたかったんだ。 嬉しくて嬉しくてただそれだけしか感じずに、 私はここが自分の家の前だということなんてすっかり忘れて、 彼に思わず抱き着いてしまった。だって、大好きな人がこんなに愛しいことをしてくれたのに、 冷静でいられるわけがないじゃない。 「サエ、エネルギー補給させて」 「…うん」 「あーもー」 「つうか、俺も今充電してるけどね」 「…………あっそう(わざわざ言わんでよろしい!)」 「俺、絶対根ぇ上げんなら、だと思ってたのに」 「サエだったね?(にやにや)」 「…うるさい」 「サエ、私やっぱ、勉強頑張る」 「(やっぱって……)(やっぱりへこたれてたんだ)」 「頑張るからね」 「はいはい」 やっぱり、私は、彼と一緒にいるときが、一番落ちつきます。 |