触れた手がやけに暖かかったのは何で?





 桃色片思い?





「あー、わっかんなーい!」

 勢い良く机に俯けると「俺もー」といかにもやる気なさ気な声が上から降ってきた。ちらりと顔を上げて視線をやると、佐伯はギイと嫌な音を鳴らしながら椅子のバランスを崩して壁にもたれかかっている。しかも、手で隠そうともしないまま堂々と大口で欠伸をする彼に、私は気づかれないように小さい溜息を漏らした。


「大体、何で宿題忘れたのが私と佐伯なのよぅ…」
「昨日帰ったあと寝ちゃってさ」
「……いつも忘れないくせに…」
「いや、そうでもないよ? バネとかに写さしてもらったりするし」
「…どうして、今回は」
「だから、寝ちゃったんだって」


 昨日きつくてさ部活、って付け足して佐伯は言った。佐伯は今私の正面に座っていて、いわば私と佐伯は机を合わせて、向かい合った状態で課題をやっているのだ。今更ながら私は机を合わせたことを後悔した。だって、聞こえてくる声は俯いてもとても近く、見ないようにしている顔との距離もとても近い。このままでははかどらないどころの問題ではない。


「………どうして私忘れたんだろ。今回に限って」
「不運だったよなー先生機嫌悪くて課題やけにたくさん出されたし」
「そうじゃなくて、何で佐伯と二人で…」
「うわ、それ普通に失礼だし」
「だって、ほんとよりによって佐伯…」
「そんなこと言われてもなぁ」


 肩を竦めてこちらを見据える。一瞬かち合ってしまった目を慌てて逸らすと、彼が困り顔で笑ったことを気配で感じ取った。…だから、それも心臓に悪いのよ。


。どこまで進んだ?」


 ふわりと、彼の柔らかい髪が目の前に現れる。私のプリントを覗きこんできたのだ。うわ、と思った。ただでさえ教室で二人きりだという事実で私の心臓はもたないと言うのに。この男は。
 一体どこまでわかっているのか。


「え、いやまだ問一…」
「マジで?!」
「う、うん(何よ)」
「はは、ずっと黙ってやってるから進んでるのかと思った」


 くすりと笑う。実は全然集中してないだろ、と可笑しそうに言う。
 そういう自分はどうなのよ、って言ってやったら問三だと得意気に言ってきた。
 たいして変わらないじゃない。


「……ふーん」
「教えて欲しい?」
「いや別にいいです」
「でも、これ終わらないと帰れないよ」
「……適当にやるもん。同じ答えだと写したってバレそうだし」
「数学は答え一つだと思うけど」
「! …佐伯の答えが合ってるとは限らないでしょ!」
「俺数学は得意な方だけど?」


 別にいいわよ!って言い返そうと思って、顔を上げてみたら満面の笑み。この笑顔を見せられて嫌だと言える人がいたらお目にかかりたい。だってこの人、ほんとに、優しい笑顔を見せる。分け隔てなく向けられるその笑顔に愛しさと、また同じくらい切なさを抱きつつ、結局のところ私はこの笑顔にとても弱い。たとえその他大勢でも今、この瞬間だけは私に向けられているのだ。多くは望まない。二人で居残りをやらされていることだって、偶然にしろ、とても凄いことだ。十分、贅沢。

 ―――だけど、この笑顔を私だけのものにしたいとも思ってしまうわけで。


 私ははあ、と小さい溜息をこぼしたあと、「お願いします…」と佐伯に頭を下げた。


「うん、どこがわかんないの?」
「…なんかもう全部…?」
「じゃあ、順番に説明してこっか」
「う、うんありがとう」
「いえいえ」


 私はとても数学が苦手で、テストはいつも赤点スレスレだ。正直、馬鹿過ぎて呆れられるかな、と心配だった。だけど佐伯はいくら彼の説明を聞いても頭にクエスチョンマークを浮かべる私に、根気強く何度も、丁寧に教えてくれた。例題も出してくれている。佐伯の説明はとても解りやすいと思う。…なのに。


「じゃあ、ここでXが前に行くんだ!」
「……ああ、この場合は最初にこっち賭けなきゃ」
「…えー、あ、じゃあこれは後回しなの?」
「うん、別に先にやってもできるけど、そうすると計算面倒臭くなる」
「……そっか…」
「っていうか掛け算間違ってる!」
「え!?」
「7×6は42だよ」
「……そ、そだね…」


 どうして、私はこうも呑み込みが悪いのでしょうか……?  

 私だって恋する乙女(自分で言っててキモイとか思うけどそこはスルーしてほしい)なのだから、好きな人の前では格好良い私でいたかった。頭悪ィ女とか思われたくなかった。掛け算もまともに出来ないなんて最悪最悪最悪!!


 泣きそうになりながら顔を上げてみたら、佐伯は可笑しくて仕方がないというように――だけど一応気を使っているらしく――手を口元に持っていって、肩を震わせて笑っていた。しばらく呆けて見ていたら、目が合って、その瞬間ぷっと吹き出した。


「な、なに?」
「や、はは、面白い
「別に面白くなんてないよ?!」
「だって、お前この年で掛け算間違えちゃダメだろー」
「! ちょっと計算ミスしただけだもん!」


 まだ肩を震わせている佐伯をじとりと睨むと、佐伯はそれがまた可笑しかったようで、くすりと笑う。そして「どうミスしたら57になるんだよ」ってちょっと意地の悪い笑みをして見せた。私が慌てて「書き間違えたの。頭ではちゃんと42だったもん!」と取り繕うと「ふぅん?」って少し眉を上げて、にっこりと。

 私の心臓は、あなたの一挙一動に過敏に反応しすぎる。

 有り得ないほどに早く打って、顔もきっと赤い。その原因を彼はきっと計算ミスだと思っているだろう。だけどほんとは原因なんてものは彼以外には考えられなくて。彼の知らない表情を見るたびに、愛しさと切なさを覚える私の気持ちを、彼はきっと知らない。今、私がどんな気持ちでここにいるのかも、ほんとは逃げ出したいくらいな私を、あなたはきっと知らない。


「じゃあ、続きやろっか」


 どうして、そんな優しい表情ができるの?

 その笑顔を見たら、女の子なんてみんな勘違いしちゃうよ。
 私だって、ほんの少しの自惚れを感じてしまうもの。
 自分に都合の良い考えを浮かべては否定して、の繰り返し。


 優しくされるのは、嬉しいけど。凄く。ほんとは凄く。
 ――――辛い。


「ちょっと貸して」


 触れた指先。私のシャーペンを取る。そしてそのまま、私のプリントに書きこみながら説明する彼。提出しなければいけないのだから、彼の書いたメモは消さなければいけない。だけど私はそこにずっと残しておきたい、と痛切に願った。だってこんな機会。きっと二度とない。


「――ってなるわけ。わかった?」
「う、うん」
「怪しいなあ」
「ほんとに分かりました!」
「そう?」


 多分。と心の中で返事する。だってこれ以上迷惑はかけられないじゃない。佐伯一人でやったほうが絶対早いし(だって私教えてもらってばっかりだ)、きっと彼は早く部活に行きたいだろう。それに実際、私なんとなくコツつかんだ気がするし、佐伯の手を煩わせなくてもきっと大丈夫。


「ありがとね」
「どういたしまして」


 お礼を言うと同時に細められたその目に今私が写ってるんだ、なんて思っちゃったりして。やはりただのクラスメイトのこの関係が一番いいのかな、なんてふと思った。友人に彼と放課後居残りなの、と告げたら皆口をそろえて「チャンスじゃん!」っていった。いいかげん告ってしまえと煽られた。そう考えなかったって言ったら嘘になるけど、でも私は嬉しい、とか思うよりも先にどうしようって思った。だって私はとても消極的で、自分から行動なんてできないんだもん。しようと努力していないだけなのかもしれないけど、やはり彼を目の前にしてしまうとそんな余裕はとてもない。





 シャーペンの音だけが聞こえる。


 私はしっかりと握り締めて、いつもより数段濃い筆圧で問題を進めていく。先ほど佐伯に何度も教えてもらったから割と順調に解けていた。早く終わらせたいような、このままもう少しだけ引っ張っていたいような複雑な気分でシャーペンを走らせる。

 ちらりと顔を上げて彼の様子をうかがうと、佐伯は頬杖をついたまま私の方を見ていた。
 目が、合ってしまった。


「順調じゃん」


 私のプリントを指差して、「掛け算も間違えてないし」と落ち着いた声。
 声のトーンが低くなった。
 彼のそんな声は聞いたことがなくて、私は心臓が一段高く跳ねたのを感じた。

 顔が、熱い。


「……つか、佐伯自分のやらなくていいの…?」


 彼の視線が痛くて、俯く。わざと意識して普通に喋ろうとしたのに、語尾はかすかに震えてしまった。平静を装うために次の問題に取りかかる私にこの人は気づいているのだろうか。


「うん、やんなきゃダメだけど」


 ぽつりと話す。
 低い呟きも、二人しかいない教室では、とても響いて聞こえた。


「…だって、部活でしょ……?」
「うん」
「……行かなきゃいけないんじゃないの?」
「んー」


 割とはっきりしているタイプである彼が、こんな風に返事を濁すのは初めてだった。調子狂う。沈黙が続いて、居心地が悪い。だから、彼と二人きりなんていやだったのよ。




 最後の問題。あと一問だ。これが終わったら私は佐伯にありがとってお礼を言って、そのまま家に帰れる。そして明日いつもと同じように彼に挨拶をしよう。昨日は大変だったね。って。それでいい。それがいい。


 必死で問題を解いているとふいに佐伯が口を開いた。  声を聞いた瞬間、指に、腕に足に背中に。全身に緊張の糸が走った。


さ、彼氏とかいるの?」
「…え? あ、や、って、え……?」


 それはあまりにも唐突な質問で、思わず握り締めていたシャーペンを落としてしまった。慌てて椅子から降り、しゃがみこんでそれを拾う。…しかし、立ちあがった瞬間ばさばさと紙の落ちる音がした。

 ほんと、ありえない。


「わ…、」


 おぼつかない手つきですっかり落ちてしまった課題を泣きそうになりながら拾った。佐伯の顔なんて怖くて見れなかった。何て馬鹿でドジなんだろう。本気で呆れられたらどうしようって私の頭の中はそれだけだった。なのに。



「……ぷっ…、」


 え、と思って振り返ってみると佐伯はお腹を抱えて爆笑している。
 目には涙まで浮かべて。
 ……楽しんでくれているならいいけど、どうにも複雑だ。
 だって。一体その意図はなんなの?


「いや、ほんと、今日一日で十環はどういう奴なのか完璧にわかったよ」
「な、なんでよ!!」
「だって、…マジで有り得ないよ。!」
「た、ただ落としただけじゃん!」
「だって、今凄い変な顔してたよ?」
「!(変な顔って!)(ひどい)そんなことない!」


 違うんだよ。私が今日有り得ないくらい失敗しちゃってるのって、佐伯がいるからなんだよ。普段はそこまでドジじゃないんだよ。


 がたん、と立ちあがって佐伯は散らばってしまったプリントを拾うのを手伝ってくれた。顔はまだ全然笑っていて、目じりには涙が浮かんだままだ。

 ふいに、手が重なった。


「あ、ごめん」
「え、や、こちらこそ…」


 慌てて離す。ただ紙の擦り合う音だけが聞こえた。
 早く、帰りたくて仕方がない。




「はい」


 笑顔で差し出された紙の束を「ありがと」って俯きながら受け取った。
 顔なんて、見れない。有り得ないほど私の顔は赤いだろうし(もしかしたら真っ青かもしれない)、何故だかわからないけど彼の顔を見たら私はほんとに泣き出してしまう気がしらから。


「もう、落とすなよ?」


 そう言ってそのままわしゃりと頭を撫でられて。髪を梳かれた。ものすごくナチュラルにこんなことする。私がどれだけ意識しているかなんて、知らないからそんなこと出来るんだよ。


「…うん、ありがと」
「で?」
「え?(なに?)」
「だから、さっきの返事」


 一体何を聞かれたのかわからなくて、思わず反応が遅れた。佐伯は私の反応が待てないみたいに、「だから、彼氏」ってゆっくり言葉一つ一つを区切るようにして言った。顔が赤くなるのを感じる。


「……悪いけど、いません」
「へぇ、そうなんだ?」


 居た堪れなくなって、そっぽを向いた。だって、居心地が悪い。彼と恋バナが出来るほど、私はポーカーフェイスが上手くない。彼はさして鋭くもないけれど、決して鈍いタイプでもないから、きっと私の気持ちに気づいてしまう。





「――――じゃ、俺にもチャンスあるかな」





 静まり返った教室に彼の言葉はまるで魔法の言葉のように、だけれどもはっきりと。  私の耳にするりと風のように、とけこんでいった。



 これを冗談で言っているなら、絶対嫌いになってやる。