Good Night, darling






 カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。
 目を細めながら瞼を開くと、真っ先に目に入ったのはこちらを向けて眠る佐伯の顔。穏やかな寝息をたてている。あまりにも距離が近かったことに驚いて、反射的に上半身を起こした。途端に、彼の柔らかい前髪がふわりと揺れる。それを見て昨夜の、夢のようなひと時を思い出してしまう。瞬く間に赤くなる顔。先に起きていてよかった。こんな顔を彼に見せてしまったら、間違いなくからかわれるだろう。だって彼はとても意地が悪いから。心底楽しそうに、「どうしたの?」なんてわざと顔を覗き込んでくるだろう。そんなところが(そんなところも?)好きだと思うんだから、私も大概どうしようもないなと呆れてしまうけれど、さすがに朝っぱらから、昨夜のような恥ずかしい思いはしたくなかった。


『そんな顔、するんだ』
『うん、かわいい』
『ちょっと黙って』



 昨夜は何がなんだか全然わからなくて、ただただじっと彼にしがみつくしかなかった。何を言われても彼の言葉は全て耳を通り過ぎるだけだった。何もかもがあやふやで不安定だった。
 …それなのに、一夜明けた今。断片的だけど、確かによぎる光景。彼の声。表情。手。広い背中。どうして、こんなにも鮮明に覚えているんだろう。


『ごめん、緊張してる』


 そっと右頬に触れながら紡がれた言葉は、彼の指先が微かに震えていることに気づかなかったら、絶対信じられなかった。だってどう考えても「緊張」なんて可愛げのあることをしそうな人に思えない。いつだって余裕で、さらりと何でもこなすイメージで。さり気なく女の子をお姫様気分にしてくれるところなんてほんと見事としかいえない。そんな彼にいつも言いくるめられてしまって、負けっぱなしの私。そんな私のことで、あの佐伯が"緊張"するなんて誰が想像できたろう?


『名前で、呼んで』


 その声は、いつもみたいに私の反応を見て楽しんでいるっていう彼独特のからかいの色を含んだものではなくて、とても、とても切なげに響いた。こういうことを言うときは、頼んでいる素振りを見せているにも関らず、何処か断定的でむしろ命令形だったのに。私の意志なんて関係なしに紡がれるものだったのに。―――あんな時だけ、甘えた口調になるのはずるいと思った。


『すげぇ、好き』
『-―大好きだよ』



 彼は言葉を惜しまない人だった。欲しいときに欲しい言葉をくれる人だった。
 だから、今まで何度も聞いた響き。かつては聞くたびに心が暖かくなった魔法の響き。もう慣れてしまっていた。それなのに、私の目を見て真っ直ぐと告げられた瞬間、何だか泣きたくなってしまったのは何でだろう。零れた涙は決して、痛みだけのせいじゃない。






(人の気も知らないで、ぐっすり寝ちゃってさ)

 安らかな寝息を立てる佐伯の髪を指で遊ぶ。伏せられた長い睫毛。もしかしたらマスカラをつけた自分のそれよりも長いんじゃないかと少しむっとする。均整のとれた顔も何だか悔しい。

(ていうか、顔つき変わりすぎだし)


 優しい表情。バカみたいに騒ぐ、子供っぽい表情。してやったりって言葉がぴったりな、少し意地悪な表情。昨夜初めて見せた鋭い目は、今はもう閉じられていて、あどけない顔に変わっている。ころころと変わる表情。一体いくつの"仮面"を持っているのか。きっと、まだ私が知らない顔もあるんだろうな。本当に参る。心臓いくつあっても足りないよ。


『ごめん、もう無理だ』


 何の合図もなしに、唐突に引き寄せられた腕。気がついたら、すっぽりと彼の腕に収まっていた。何度も何度も優しく髪を撫でられて、どうしようもなく胸が苦しくなった。彼の手は、とてもとても優しかったのに、触れられる度に苦しくて。切なくて。


『嫌なら、拒んで』


 ―――私に、そんなこと出来るわけないじゃない。
 知っているくせに。ずっと前から、知っていたくせに。


 本当にずるい男だと、そう思った。













「………ん、」


 くぐった声が耳に響いて、佐伯が身じろぎをする。途端に固まる私の体。慌てて距離を離す。服はしっかり着ているけれど、反射的に、まるで体を隠すように布団を引っ張ってしまって。その反動で、彼はうっすらと重い瞼を上げた。まだ寝ぼけているようで、「ん〜」と唸りながらごしごしと目を擦る。私の姿を確認すると、いつもみたいに、可笑しそうにふわりと笑った。


「何、布団独占してんの?」
「え、や、あっ」
「俺にもちょうだいよ。ずるいなぁ」

 拗ねたような声を出して(絶対わざと)、両腕を突き出す。どうやらまだ寝たりないらしい。だったら寝かせておこう。その方が私も助かる。色んな意味で。(だって起きてられたら絶対昨夜ネタで散々遊ばれることは目に見えている。そんなのって絶対避けたいじゃない!)
 そう思って、「はいどうぞ」と喜んで布団を返そうとしたのに、彼の手は、差し出した布団ではなく、私の腕を捕まえた。あっという間に、ぎゅっと抱きしめられてしまう。

「ちょっ、違うでしょ! 佐伯布団は!? 無視ですか!」
「んー、似たようなもんだし」
「全然違う! てか、寝たいなら一人で寝てよ?」
「なーに冷たいこといってんの。昨日はあんなにかわいか、」
「わー! 待ってちょっと何も言わないで…!」

 腕の中でばたばたと暴れる私を押さえつけるように、佐伯は抱きしめる腕の力を強くする。ずるいずるいほんとずるいよこのおとこ! しかも、途端に煩くなる私の心臓の音。何て正直なんだろう。本当に嫌になってしまう。いつだって私はこの人の思うとおりに反応してしまうから。


「…もう一回、する?」


 耳元で囁かれた言葉に、なななな何言ってるの…!なんて盛大にどもった私の声を聞いて、あはは、と満足そうに笑ったかと思ったら


「なーんてね。まだ眠いし。とりあえず寝よう?」
「……私はどっちかっつったらもう目覚めてるんですけど…」
「今は俺の抱き枕になってくださいよ?」
「普通に枕抱いてればいいでしょ!」
「嫌だよ。がいい」
「…我侭にも程があるでしょう……」


 脱力した私なんてお構いなしに。



「お楽しみは後にして、さ?」


 そう言って、わしゃりと私の頭を一撫でした。
 ――ほんとに、さいあく。

 きっと、いつになっても私は彼には勝てないんだろう。
 ふわぁと気持ちよさそうな彼の欠伸に誘われて、私も瞼を閉じた。