キミのハートに大革命


 ミーンと煩い蝉の鳴き声と校庭から聞こえる運動部の掛け声に包まれているこの空間はどうしようもなく居心地が悪い。ちらり、と恐る恐る顔を上げてみれば、不意に絡まる視線。…目が、合ってしまった。どうしよう。

「……………」
「……………」

 なんとなく私が視線を逸らせずにいたら、気まぐれに跡部くんは「暑ィな」と呟く。
 それが独り言なのかそれとも私に向かって発せられた言葉なのかわからなくて、私は一瞬ぼうっとしてしまう。だけど、よく考えてみると今教室には私と跡部くんの二人しかいないのだから、例えそれが独り言だったとしても、無視するのは失礼かもしれない。
 そう思って、少しばかり遅れて「そ、そうだよね」なんてドモりながら相槌を打つと、跡部くんは、さっきまでは無かった皺を眉間に寄せて、私の方をちらりと向いた。

「……お前、」
「な、なんでしょうか…(こわい、この人こわい!)」

 跡部くんはテニス部の部長で。しかも生徒会長で。ルックスなんてその辺の芸能人よりずぅっとカッコ良くて。頭も良くて。女の子にモテモテで。
 ありきたりな言い方をすれば、何をやっても十人並な私とは住む世界が違う人である。
 だから、こんな風に二人きりになってしまったり、鋭い視線を投げかけられたり、ましてや話しかけられたりしたものならば、私の心臓は有り得ないほど緊張してしまうのだ。
 だって跡部くんってクラスの男子とは比べもつかないほど、迫力あるんだもん……

「…………」
「…………」

 ドキドキしながら跡部くんの次の言葉を待つと、彼は、はぁ、とため息を一つ零す。
 こ、こわい……、こんなに怖がっちゃ失礼かなとも思いつつ、やっぱりこわい。
 なんなんだろう、この貫禄は!

 シャーペンを握る力を思わず強くして、彼の険しい視線から逃れるように私は日誌にペンを走らせる。ぶっちゃけ、自分で何を書いているのかはわからなかったけど、何もしないよりはいい。未だかってない重い空気の中で私が考えることと言えば、よりによって今日休んでくれた隣の席の小林くんのことだ。もし彼がいつも通りに、学校に来てくれれば私が跡部くんと日直を組まされることはなかったのに…!

 私が大絶賛に、小林くんに恨みの念を送っていると、不意に跡部くんが口を開いた。

「お前、よく人からトロいって言われんだろ」
「―――え?」
「トロいっつってんの」

 そう言って、跡部くんはチッと舌打ちを一つ零す。
 トロい、トロい。そりゃ、私は人よりマイペースだったり、運動神経も皆無だったりするけれど。跡部くんから見れば、私なんてめちゃくちゃノロマな人間に見えるんだろうけど。
 でも、でもね? 
 一応、跡部くんも日直だってのに、仕事してるのは全部私なんです、が!
 その私にトロいなんて悪態をつくのは、ちょっと失礼なんじゃないのかな、跡部くん!

「んだよ」

 ………と、思っても跡部くんに反論できるわけもなく、私は何でもないです…と情けなく呟いた。跡部くんは特に気にした様子もなく、ぼんやりと窓の外を眺めている。
 ……なんか、これって、さ…

「あの…」
「あ?」
「(こ、怖い…!) 跡部くん、今日部活あるよね…?」
「ああ」

 何当たり前のこと聞いてやがんだコイツ…って表情をありありと浮かべながら跡部くんは頷く。うう…、絶対変に思ってるんだろうなぁ。でも、ここで負けてはいけない。

「あのそれだったらさ、私後やっておくから、跡部くん部活行って来ていいよ…?」

 むしろ、行って!
 そう思いをこめながら言葉を紡いだ私に跡部くんは怪訝な顔つきをした。
 てっきり跡部くんは、「そうか?」なんて言ってここを立ち去るものだとばかり思っていた私は、跡部くんの意外な言動に思わず身構えてしまう。

「日直なんてそう手間のかかるもんじゃねえだろ」

 ……どうやら、大丈夫らしい、です。
 そう、確かにそんなに時間のかかるものじゃないんだ。短期間でできるんだ。
 実際、後残っているのは日誌だけだし。跡部くんと私が教室に残ってから、十分もたってない。け れ ど。 気まずい空気だと、その十分が数時間にも数十時間にも感じられる。
 ……できることなら、今、部活に行って欲しかったんだけどな…。
 そうすれば、跡部くんも幸せ。私も安心。だと思ってたのに。

「おい」
「……?」

 おもむろに話しかけられて、ゆっくりと顔を上げると跡部くんは、黙ったまま日誌を指差した。不思議に思いつつ、跡部くんの促す欄を見てみると。そこには。

「間違ってる」
「…へ?」
「五限は理科じゃなくて数学だ」
「あ、」
「センコーの名前も直しとけよ」
「うん」

 慌ててペンケースから消しゴムを取り出して、指摘された個所をごしごしと消す。
 私はどうにも筆圧と消しゴムにかける力が強いらしくて、間違えた5時間目の欄が綺麗に消えたころには、そこだけぐしゃぐしゃになってしまっていた。
 あー…、やっちゃった…
 なんとなくしょんぼりしながら、日誌を呆然と見てると、不意にクッと低い笑い声が聞こえてきた。どうやら、跡部くんが吹き出したらしい。(そしてもしかしなくても、今この人に笑われてるのは私である)

「…なんですか…?」
「っや、お前、マジ受ける」
「…どこが」
「っつーか、俺的にヒット」
「…………」

 右手を口元に持っていって、肩を震わせて笑う跡部くん。
 こんな風に無邪気に笑う姿は初めてみた。いつもの偉そうな感じじゃなくて、
 なんていうか……年相応って感じ。
 不意に見せた彼の笑顔に、私は笑われている(というより馬鹿にされているのは)自分だと言うのに、なんだか少し心があったかくなって、ポカンと口を開けて跡部くんをまじまじと見つめてしまった。きっと、今、すごくアホな顔してる。

「跡部くんも笑うんだ」

 そして思わず口走ってしまった言葉。
 慌てて口を抑えてみるものの、目の前でさっきまでの笑顔は幻かと思わせるような微妙な表情を浮かべる跡部くんを見る限り、まず間違いなく言ってしまったらしい。
 うわ、せっかく笑ってくれたっていうのに、何てこと言うんだ、私…!

「ご、ごめんッ。変な意味じゃなくて、その意外で…!」
「………フォローになってねえ気ィするが?」
「え、うそ、わ、ご、ごめん…」

 ああもう私って何でこうなんだろう……

「つうか」
「う、うん…?」
「さっさと直せよ」
「――わかった…」

 本当ならずっと前に終わっていただろう日直の仕事がこんなに長引いたのは明かに私のせいだ。なんだか申しわけなくなって、私は慌てて5時間目の欄に数学、欠席者の欄に小林くん、と埋めた。これ以上、跡部くんにトロい女って認識されるのも、少し(いや、とても)悲しいものがあるし。さっさと終わらせよう。

 気合いを入れて、がしがしと日誌を書く私と。
 頬杖をついて、私の手元を見る跡部くんと。
 煩い蝉の鳴き声と運動部の掛け声。

 さっきまでと何も変わらないシチュエーションなのに、何故だか空気が柔らかくなった気がした。不思議とシャーペンを持つ手も軽い。

 そして、私が最後の欄、「今日の一言」を何にしようか考えている時に。
 ――それは起こった。


「お前、夏休みどうすんの?」
「――え?」
「夏休みだよ。来週からだろ」
「いや、それは知ってるけど」

 私がそう言えば、跡部くんはチッと舌打ちをする。
 …何故だろう。なんかまたこの人機嫌悪くなってませんか。
 とりあえず、これ以上引っ張ったらますます跡部くんの眉間の皺が濃くなっていく気がしたから、私は答えを口にした。きっとこれは、跡部くんなりの世間話なんだろう。

「えーと、友達と買い物したり映画見にいったり、花火いく予定」
「…へぇ」
「跡部くんは?」
「部活」
「ああ、頑張ってね。強いんでしょ?」
「まぁな」

 褒められなれているのか跡部くんは、偉そうに言うわけでも謙遜したりするわけでもなく、ただ単に事実を認めてる、という感じで頷いた。愚問だったかなと私は少しだけ後悔したけど、他に話すこともなかったので仕方がない。自然の流れだったし。

「…………」
「…………」

 なんとなく、静寂な空気が流れる。
 蝉がうるさい。跡部くんじゃないけど、ため息の一つも零したくなる。



 そして次の瞬間。
 跡部くんによって発された言葉に私は今度こそ大口を開けて呆然としてしまった。







「彼氏、とかは?」

 真っ直ぐと見つめてくる瞳。
 さっきよりも少しだけ小さい声。
 ―――ドキドキする。

「な、なんでそんなこと聞くの」
「なんとなく」

 そう答えた跡部くんの顔はこれでもかって程、いつも通りで。
 まだまだ惚けた様子で跡部くんを見つめる私を、はんと鼻で笑って。
 口元を吊り上げて笑う、嫌な表情。


「バーカ、何期待してんだよ」

 心底楽しそうに笑う跡部くんを見て、私はやっと自分がからかわれたことに気づいた。 やだな絶対自意識過剰女(その程度で)とか思われてる…! 違うよ、私だって他の男子に言われたのならば、全然気にしないで普通にいないよって言うさ! でも、相手が跡部くんだったからなんか…ちょっとだけ……
 ……すっごい恥ずかしい、今。

「期待なんかしてないってば!」
「へぇ?」
「してないの全然! いきなり跡部くんが変なこと言うから、ちょっとビックリしただけ!」

 最初の緊張はウソみたいに声を荒げる私に跡部くんは今度こそ盛大にプッと吹き出して、お腹を抱えて笑った。俗にいう、大爆笑ってやつ。
 ……すっごい悔しいんだけど!

「……日誌終わったからね!」

 乱暴に机の上を片付けて、ガタガタと煩い音を立てながら、立ちあがる。
 跡部くんは、まだにやにやと嫌な笑みを浮かべて、こちらを向いたまま動かない。
 私は、もう帰るね、と日誌を持って、教室のドアに向かう。
 すると、そこで声をかけられた。



「なに!?」

 よっぽど悔しかったのか、知らず知らずのうちに私の声は乱暴になっていて。
 けれど、そんなことを気にはしない跡部くんは、淡々と。



「さっきの、」


「実はすげえ気になるっつったら」


「お前、どうする?」




 ……………声が出なかった。
 頭の中が真っ白になって。何を言われたのかたった今聞いたことなのに全然わからなくなって。けれどわからないと思った途端にすぐ思い出して顔がかぁっと熱くなったりして。
 とにかく、絵に描いたように戸惑っている私は、

 跡部くんがこちらに近づいて、腰を曲げて日誌を拾ったことで、やっと、
 自分がそれを落としたのだということに気づいた。
 何も言えずに、とにかくそれを受け取ろうと手を伸ばしてみると、
 跡部くんはそれでぺしりと私の頭を軽く叩いて。

「鈍いんだよ、てめーは」

 そう、言い残してさっさと教室を出ていってしまった。



「…………え?」

 一人残された私は永遠と跡部くんが最後に言った言葉を頭の中で反復していた。蝉の煩い鳴き声も運動部のかけ声も、今の私の耳には全く入らなくて。
 ただただ、跡部くんの声がぐるぐると回っていた。






とある夏企画に参加させていただいた作品です。(パート2)
……なんか、ほんとよくある話だなぁ……(笑)

...タイトルはこちらからお借りしました。