あなたが思うほど、きっとわたしは強くなかったんだ。





   心変わり、華心





 いつからか感じはじめた違和感。
 目を背けたいと願っても、気づかない振りをし続けるのは至極無理なことだとわたしは知ってしまった。
 わたし以外の人間なら気づきもしないような些細な変化。きっと誰も知らない。気づかない。注意しなければ見落としてしまいそうな、本当に小さな変化。けれど彼の心情を知るのには十分過ぎて。それに気づいてから、わたしは彼の目を見て話すことができなくなってしまった。初めて本気で、彼に恐怖を感じてしまった。

 口では意地の悪いことを言っていても優しかった瞳はもうそこにはない。




「話がある」

 景吾から呼び出してくれることなんて本当に、本当に珍しくて、今までのわたしなら飛びあがらんばかりの勢いで喜んだ。じゃれつくように景吾の腕に自分のそれを絡めて全身で嬉しさを表現していた。
 だけど、今はそれができない。そして、景吾もまたそんなこと望んでいない。この感情は何て言ったらいいのかな。どんな言葉が一番似合うのか、わたしは知らない。

「…話?」

 今、私はどんな顔をしているんだろう。
 ちゃんと笑えてる? いつも通りに。
 あれは何時のことだったんだろう。一度だけ、ほんとにたったの一度だけ、好きだと言葉をくれた日。
 嬉しくて、でも凄く凄く恥ずかしくてずっと下を向くわたしに、笑った顔が見てーんだけど。なんて何処か不機嫌そうにあなたが言ってくれた言葉。あまりにも予想外のことを紡ぐからわたしは目を丸くさせて、え?と声を漏らした。わたしのその態度に景吾は気分を害して、その後口を噤んでしまい、それから何故だかわたし達は喧嘩をしてしまった。だけど、ほんとは。本当はね、ちゃんと聞こえてたんだ。すごく、すごく嬉しくて。それから景吾の前では自然に笑顔が零れるようになったんだよ。笑っていよう、ってそう思えたんだ。
 それなのに。わたしは、一体。

 ―――いつから、笑えなくなったのかな。



「時間あるか?」
「…うん。大丈夫」

 声が、震えた気がした。
 だってきっとこの予感は嘘じゃない。胸騒ぎがするのはきっと気のせいじゃない。
 どうすればいいのかな。今もまだ、足掻こうとするわたしを景吾は笑うかな。
 それとも迷惑だって突き放されてしまうのかな。わからない。景吾が今何を考えているのか、わかんないよ。
 誰よりもわたしが景吾を理解してる、なんて優越感に浸っていたこともあったのに。
 今はね、もう、あなたの気持ちが見えないの。その瞳が何を語るのか、わたしには想像もつかないんだ。
 ……それとも単に、わたしが抗うことができない事実から目を背けているだけなのかな。
 それすらわからない。


「中庭行くか」
「…他にも人いるんじゃない?」

 わたしの言葉にちらりと景吾は自分の腕時計を見て、この時間なら大丈夫だろ、と言う。
 そっか、とわたしは前を行く景吾の後を付いて行く。わたしの数歩先を歩く景吾は、わたしがちゃんと自分の後に続いているのかどうか確かめるように、振り返って、わたしの顔を見てその綺麗な顔を少し歪めた。
 バカみたい。これからあなたはわたしに消えない傷をつけるんだから、わたしのことなんか気にしてちゃダメでしょう? 優しさなんて見せないで。どこまでも酷い男を演じてよ。




 今日は風が強い。
 びゅうびゅうと吹きぬける風になびく髪を右手で抑えつける。
 ちらり、と恐る恐る景吾の様子を伺ってみれば、景吾はやはり何処か難しい顔をしていた。眉間には数本の皺。最近の景吾には常にそれが固定されていて。わたしはいつもなんとかして機嫌を取ろうと必死だった。
 以前は彼の眉間の皺も吐かれるため息も全てフェイクで。時には照れ隠しなんて甘いものだったのがまるで夢みたい。いつからかな。ほんとに、いつから歯車が狂ってしまったのだろう。

「………………」
「………………」

 自分から呼び出しておいて景吾は何を言うわけでもなく、険しい顔のまま押し黙る。
 これから告げる内容を言いよどむほどにはわたしを大切に思ってくれていた。大事にしてくれた。好きになってくれた。ちゃんとわかってる。いつだって分かりにくかったけど、わたしは確かに景吾の愛情を肌で感じていた。
 好きだった。自惚れなんかじゃない。わたし達は確かに恋をしていた。

「………早くしないと、誰か来ちゃうよ」

 景吾にだけは言われたくないセリフを急かすわたしを、自分でとてもバカだと思う。
 だけど沈黙は耐えられなくて。こんな時にもまだ見せる彼の気持ちを受け入れるには、わたしは弱すぎて。幼かった。景吾のわたしを想う気持ちはもうわたしを傷つける凶器でしかないんだ。

「誰にも聞かれたくない話でしょ?」

 今、わたしは景吾の瞳にどんな風に映っているんだろう。
 わたしもまた景吾と同じように厳しい表情をしているのかもしれない。
 もしかしたら目尻も眉毛も吊り上がっているのかもしれない。
 それとも、今にでも泣き叫びそうな程歪んでいるのかもしれない。

「…まぁ、そーなるな」

 ポケットに突っ込んであった右手でうざったそうに前髪をかきあげながら景吾は言った。
 いつもと同じ声色を出そうとしてるけど、そんなのわざとだとすぐ分かる。作ってる。
 最近のわたしと景吾はいつもそんな感じ。一緒にいても、お互い本心は別の場所にあった。
 きっと気づかない振りをしていたのはお互い様。


「………悪ィ」



 なんとなく、ヤバイかな、とは思っていた。
 三年になってわたしと景吾はクラスが離れた。元々忙しい人だったけど、三年になってから生徒会長までも勤めることになった景吾と一緒に過ごす時間を取ることはとても難しくて。わたしは寂しさを隠すことができなかった。会いたい、と告げても、忙しいから無理、と軽く断られて、景吾にわたしはもう必要じゃないかな、なんて落ちこんだ。そして久し振りに会えても不安ばかりが募って、別に景吾が悪いわけでもないのに些細なことで凄く凄く苛々して、気づけば景吾に罵声を浴びせていたわたし。恋愛が酷く辛いものであると初めて知ったのはこの時期だ。そんなわたしに、景吾は疲れてしまったんだと思う。

『お前、うるせえ』

 はあ、と吐かれたため息。うるさいって何よと言えば、景吾は何も言わずにただ押し黙る。
 口喧嘩をすることすら、拒否されてしまったらわたしは一体どうすればいいの。

『今日はもう帰ろうぜ』

 ごめん、とあの時素直に言えていたら、今とは違う未来が待っていたのだろうか。



 景吾のクラスに英語の教科書を借りに行ったときのこと。
 景吾の隣にはいつもわたしがいたのに、今はまるで取って代わったように違う女の子が横で笑っていた。
 景吾はとてもモテるから、彼の周りに女の子がいるのは大して珍しいことじゃなかったけれど。
 わたしが驚いたのは、景吾が、ひどく。―――自然に笑みを零していたから。優しい瞳で彼女のことを見ていたから。信じられない光景だった。わたしだけの特権のあの表情はもう、わたしには向かれずに。わたしから離れて、別の場所に行ってしまったの。そんなこと認めたくなかった。


「…………謝ることじゃないよ」


 搾り出した声は空気に溶けて消えてしまいそうだった。
 気づきたくなかった。ずっと気づかない振りをしていれば、あなたはまた前と同じようにわたしを見てくれるんじゃないか、って本当は少し期待していた。……だけど、もうそれは無理なことなんだ。ちゃんとわかってた。誰よりもあなたが好きだったから、気づいてしまったんだ。



「他に好きな子ができた?」


 分かってて聞くわたしをずるいと思う。


「………ああ」


 辛そうに顔を歪めるあなたをずるいと思う。


「……最低」

 ぼそりと呟いた言葉に、あなたが胸を痛めることを承知の上でわたしは言葉を紡ぐ。
 いやな女。あの子ならきっとこんな風に言わないだろう。笑って頑張ってね、って応援するだろう。
 けれど、わたしにはそれができないんだ。





「俺はお前のこと、好きだった。…本気で」


 残酷だね。何でわざわざそんなことを言うの。
 きっとあなたのことだから、後に引かない、さっぱりしたわたしの性格を信じて、綺麗に別れたいんでしょう。付き合う前はわたし達友達だったもんね。凄く仲の良い友達関係を築いてきたものね。
 それを恋しくない、と言ったら嘘になるけど。でも、わたしは。ごめんね。
 わたしはきっと、あなたが思うほど、強くない。


「わたしは、もう」


「わたしのこと見てくれない、景吾なんて」


「―――キライ」


 大好きだった。
 本当に大好きだった。
 景吾に恋して初めて、人を好きなる喜び、好きになってもらえる幸せを知った。
 色んな感情をあなたから教わりました。きっと、ずっと忘れない。


「大キライ」


 行かないで、と言えば。
 素直に涙を零したら。
 あなたはわたしを追いかけてくれるかな。


「―――さよなら」


 でも、そんなこと、あなたはもう望んでないってわたし、ちゃんと知ってるんだ。
 きっと、もっとすんなりと。笑って、ばいばい、また明日と言えるような。そんな別れを期待してたことも。
 ちゃんと、わかってる。
 ごめんね。できなくて。
 ごめんね。
 傷つけたくて、仕方ない。


「…………ああ」


 呆然とその場に立ち尽くす景吾をもう見たくなくて、わたしはくるりと踵を返した。
 最悪最悪最悪。ほんとに、最悪。




 走って、走って。足がもつれて止まった途端に堪えてきた涙がぽとりと落ちた。
 次々とわたしの気持ちなんてお構いなしに落ちてくる涙は、地面に染みを作っていく。
 景吾。景吾。景吾。
 何度も心の中で愛しい人の名前を呼んでも、あなたはもう振り向いてはくれない。
 わたしが泣いたら、きっと慰めてくれるだろうけど。でも。
 そんな優しさ、わたしはもう望んでいないんだ。


「…………バッカみたい…っ」

 今になって最後に告げた彼への言葉が、ひどく残酷なものだったと気づく。
 楽しかった。ほんとに凄く楽しかった思い出は嘘じゃないのに。
 確かに幸せだと感じた瞬間があったのに。


 ごめんね、今だけはあなたのことを思って、涙を流していいかな。
 これから先、もしかしたらあなたと言葉を交わすこともなくなるのかもしれないけど。
 きっと、わたしはもうあなたに向って、しばらくは上手く笑えないと思うけど。





 わたしの笑った顔が好きだとあなたが言ってくれたから。
 何があっても負けないわたしをあなたは好きだったから。

 いつか恋をする日まで。例えまた、同じように傷ついてしまっても。
 わたしはこれからも、ずっとずっと笑顔を絶やさずにいようと思う。



 今はまだ胸がひどく痛むけど。いつかきっとそれは愛しい痛みに変わる。







 花心=台湾語で浮気。文字を少し弄って華にしました。
 心が別の場所に移ってしまうのは仕方がないこと。だけどだからと言って恋をした気持ちは嘘じゃない。
 なんとなく景吾は別れ方が下手そうだなぁと思いました。景吾が、というより彼女が。

(2004.08.12)